ひろやす/伊藤(vnnc8158) 2011-10-24 22:11:47 |
株式会社エリエイ
http://www.eriei.co.jp タイトル : 松木壽雄写真集 山形の鉄道情景 昭和30〜40年代(下) 撮 影 : 松木壽雄 解説・考証: 藤本富美雄・進藤義朗 発 行 日 : 平成23/2011年10月21日 定 価 : 本体3,600円+税 荷造送料450円 発 行 : 株式会社エリエイ/プレス・アイゼンバーン(URL:http://www.etrain.ip/) e-maiIでの問い合わせ先アドレスはinfo@eriei.co.jp 図書符号 : ISBN978-4-87112-331-7 C1065 \3600E スタッフ 編 集 前里 孝 発 行 平井憲太郎 写 真 補 正 脇雅恵・秋山瑛美 デ ザ イ ン 前里規子 写真スキャニング 株式会社日報 印刷・製本 昭栄印刷株式会社 もくじ(下) 第3章 奥羽本線板谷峠と米沢周辺………P4 EF16の頃 庭坂−赤岩 松川橋梁 新型電機EF64初見参 福島−米沢試運転 米沢 気動車特急“つばさ”全盛の頃 雪の米沢駅 冬の赤岩・板谷 米沢区C57の頃 珍車キクハ451 赤湯のあたり 羽前中山−上ノ山 奥羽の三重連 第4章 米坂・長井線の9600……………P44 米沢駅 米沢機関区 急行“日本海”米坂線迂回運転 南米沢 西米沢 熊野臨併結124列車 長井線貨261,262列車 宇津峠 米坂線 最後の冬 米坂線無煙化の頃 第5章 左沢線C11そして…………………P66 第6章 陸東・陸西のC58…………………P78 分水嶺の駅 堺田 新庄 陸西最終列車 昭和47/1972年10月1日 第7章 羽越本線……………………………P98 酒田機関区 山形の汽車バカ一代記 −あとがきに代えて−……P110 昭和10/1935年,山形縣米澤市の西外れ,米坂線西米澤驛の直ぐ近くで生まれ,数年後米坂線の跨切の近くの借家に転居したという.覚えがあるのはこの借家からで,冬に米坂線のラッセル車が通ると,線路上から跳ね飛ばされた雪で家の窓が埋まってしまい,その度に鐵道員の父が掘り起こしていたのを思い出す.米澤機関區の裏手(米澤市下花澤)に再び転居した5歳の頃,鉄道員の父が“昨日流線形が来ていたな”と話してくれたのに驚き,“今度何時来るのか”と尋ねた [中略] この頃,所用で福島に出かける父に一緒に連れて行ってもらったことがある.米澤驛から蒸気機関車(4110形)牽引の普通列車に乗車,板谷峠越えは煙に巻かれて大変だったが,赤岩驛を過ぎて煉瓦造りの旧隧道(赤岩隧道のトンネルポータル)や旧橋梁(初代松川橋梁の橋脚)を垣間見たとき,父が教えてくれた“昔あそこを汽車が走っていたんだ”との言葉が,頭にこびりついて離れることはなかった.それから四半世紀が過ぎ、藪を掻き分けて現地を訪れたが,当時このようなことを思い立つ人すらおらず,当然廃線探訪という言葉は影も形もなく,周囲からは物好き,変人奇人の類といった,それこそ好奇の目で見られることになった. [中略] 昭和25/1950年,新制中学3年のときに漸く米澤の鐵道官舎に入ったが,奥羽本線の福島行きの汽車が出て行くときには,家のラジオが“ガリガリ・サーザー”という雑音だけになり,放送が聞こえなくなってしまったことを思い出す.丁度奥羽本線福島−米沢間が直流電化された頃であり,後年鉄道趣味の仲間から,福島第二機関区に投入されたEF15形・後のEF16形電気機関車の直流主電動機の刷子(ブラシ)などから出る雑音,いわゆる誘導障害の走りではなかったのかと教えてもらった. [中略] 昭和29/1954年,国鉄秋田鉄道管理局芦沢駅の臨時雇用員として就職した.9月26日に芦沢駅に出頭せよとの通知を受け,当日朝,芦沢駅に出勤したところ,駅の中が大変に騒がしかった.国鉄の大事件.青函連絡船の洞爺丸が沈没した日だったのだ.こうして私の鉄道生活が始まった [中略] 昭和31/1956年,国鉄職員として正式採用され,山形駅に転勤した.その後,山形駅の上司から“工業高校の電気科卒だったら,東京−大阪間を3時間で結ぶ“新東海道線”の工事の方へ転勤しないか”との話があった.“何だそれ,東京−大阪間を3時間なんて,何寝言語ってんだべ”と真面目に受け取らず,この転勤の話を断った.“新東海道線”は昭和39/1964年に“東海道新幹線”として結実したが,若しもこの工事の方に行っていたならば,如何いう人生になっていたのだろうか. [中略] 昭和38/1963年,列車乗務員になりたくて何度か試験に挑戦してやっと夢が叶い,山形車掌区の車掌になった.その時に思ったことは.“55歳の定年を迎えて今日が最後という日まで,赤い腕章の列車乗務員(車掌)で過ごそう…と”.20年ほど経って、そうとはいかなかったことは後述したい. [中略] 汽車バカとは知らずに嫁ぎ,これまで添い続けてくれた家内を始めとする家族に,汽車バカを続けさせてもらったことを感謝し,山形の汽車バカ一代記を終わることとしたい. なお,この書物は,山形県の汽車に的を絞ったものとしており,前述の奥羽本線庭坂−赤岩間の旧線探訪,半世紀前に訪問した鷹取工場の写真などは,機会を改めて発表してみたいと考えている. 平成23/2011年秋 松木壽雄 |
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