ひろやす/伊藤(vnnc8158) 2008-03-17 21:48:53 |
非営利活動法人 名古屋レール・アーカイブス 2008年2月 NRA NEWS No.3 駅弁掛け紙の楽しみ 1 津田 和一 最近の若い方は駅弁の掛け紙といっても分らないかもしれない。駅弁自体が昔と異なってしまってパッケージ包装になってしまった上、窓が開かなくて車内販売か駅で乗車前に売店で買うしか方法が無くなってしまった。更に困ったことには東海道新幹線の様にJR東海の子会社の弁当以外売っていないということになり、いやでもお仕着せの弁当を買わされてしまう。 以前は、といっても既にもう30年以上前になってしまったが、列車の窓が開き、停車時間がある程度長く、特急は少なく長距離列車の多くは急行か普通だった頃には旅の情緒が濃厚にあって、駅弁もそれに大きな役割を果していた。 時刻表を見て、どこそこの駅には美味しそうな駅弁があるから、昼飯をそれまで我慢しようと空腹に耐えていた。 「べんとー、べんとー」 と言って売りに来る駅弁屋から窓越しに駅弁とお茶を買い、開くときの楽しみは経験したものでないと分らないものがあった。また、長距離普通列車に乗っていて日が暮れてきて、乗客が一人減り、二人減りして車内には数人の乗客が薄暗い電灯の下でボソボソ話をしているか、ひっそりしている車内で食べる駅弁には侘びしさと旅愁が感じられた。 売られていた駅弁にはその駅、町の名所であったり、名産であるようなものが印刷された紙が駅弁の上に十字にひもを掛けて付いている。この紙が駅弁の掛け紙で、割合単純素朴な絵が多かったが捨てがたいおもむきがあった。同じ様に思う方が多かったと思われ、この掛け紙を収集するのは鉄道趣味の大きな一つのジャンルになっている。 掛け紙は最近のパッケージ包装の味わいのない印刷と異なって実に楽しいものがあり、後になって眺めても旅の思い出が蘇ってくるようなものが多かった。また、当時の旅の雰囲気、その町の名産・名所が駅弁の名称と共に描かれていて楽しみを倍加していた。戦時中ともなると国の方針に従った標語(スローガン)が印刷されると共に色数が減り、紙が小さくなり、粗悪紙に印刷され、値段も高くなるように時代を色濃く反映していた。 それらの駅弁掛け紙のいくつかを見ていただくことにする。 その前に、次の新聞記事(2007/11/4付朝日新聞)を見ていただきたい。戦時中の駅弁で薩摩芋を竹の皮に包んだだけで、勿論掛け紙なんてものは一切無い。このようなものでも有難がって食べていた(というよりはこのようなものでも手に入れば有難かった)頃は、旅は苦痛以外の何物でもなく、旅情とか旅の情緒の様なものは夢物語であった。 この写真は高松駅のものと書かれているが、他の駅でもこの様なものを売っていたのだろうか。寡聞にして聞いたことがない。やがて、少しずつ世の中が安定になり、お粗末なものではあるが駅弁も復活して旅も昔のように楽しいものになってきた。喜んでいると、いつの間にか近代化・合理化ということで特急が増え、窓が開かなくなり、停車時間が切り詰められて駅弁を買うことが出来なくなってきた。 昔はよかったなぁ……と思い出を語るようになるということは年寄りになった証拠で老い先短いということで、駅弁の掛け紙も急いで整理をしてNRAに寄贈しなくてはと焦る昨今である(残り時間のなんて短い事だろう)。 最初に見ていただくのは近鉄(関西急行)の駅弁(サンドイッチではあるが)の掛け紙である。関急名古屋駅で売られていて30銭となっていることから戦前のものである。 私鉄で駅弁があったこと自体珍しいと思われる上に、幕の内ではなくサンドイッチというところがいかにもおしゃれである。大軌參急弥栄会直営と書かれていることは関西急行鉄道ではなく、関西急行電鉄時代ということになる。関西急行電鉄が存在したのは1936年1月設立で名古屋開通が1938年6月、參急合併が1940年1月であるから、この駅弁は1938年6月から1940年1月1日(最も印刷の関係でもう少し遅くまで、関急の名前で売られていたと思われるが)の間という貴重な掛け紙である。 名古屋名物の金のしゃちほこをあしらった近代的なデザインで戦前ということを考えると、さすが日本の鉄道界をリードしていた関西急行(近鉄)のすばらしさを感じとることができる掛け紙である。 |
|
|