ひろやす/伊藤(vnnc8158) 2008-11-08 01:35:19 |
非営利活動法人 名古屋レール・アーカイブス 2008年10月
http://nagoyarail-acv.or.jp/nra/ NRA NEWS No.4 一口メモ (4) 1 大江の異彩 ホロネロ250 2 田口鉄道デキ53 3 GEの万能マスコンC36 白井 昭 1 大江の異彩 ホロネロ250 昭和40年ごろ留萌鉄道より甲種回送された元ホロネロ250形がシートを被って、大江駅に留置された。明治の栄光として明治村展示を目指したが、遂に解体され、台車のみ明治村に残った。同じく甲種回送の御料車は健在なのに、残念であった。 明治36年、日本鉄道は上野、青森の夜行急行に最新式列車数編成を新造、その目玉がホロネロであった。イギリスのリーズ製のプレートフレームは近代的で250形5両は、昭和まで格下げなしで残った。車体はホハフなどを含め、大宮製であったが、高価で増備はできなかった。イギリスでのこの仲間については、イギリスのこの仲間については、イギリスの友人に照会中である。 台車もプレスフレームで、リーズフォージ C 1898(明治31)年、パテントプレスドの銘板が現存する。 この名車約30両のうち日本に唯一残るリーズの近代的プレス台車であるが、とても明治31年とは思えないモダンな台車である。 2 田口鉄道デキ53 田口鉄道の40トンED、デキ53は、昭和5年、日車、TDKによる力作で、当時各電気メーカーとも抑制電制を併設したが、デキ53は電動カム、手動進段、抑制電制、戻しノッチ可能の制御装置を備えていた。 しかし、戦前の日本の私鉄は、抑速はテストのみで実用せず、鉄道省のELには碓氷を除き、抑速の機能がなかった。戦前、重負荷では抵抗の過熱で実用できなかったと思う。欧米の抵抗は高級品(リボンなど)だが、日本ではズクであった。 大井川は木材列車の重量のため、ELの改造でやっと実用できたが、日本での抑速普及はEF64頃からであった。 豊川鉄道の発注で昭和19年完成のデキ54(ED301)と近鉄デ25は電気的には全くデキ53と同じであった。 デキ53は戦中、飯田線で正面衝突大破、日車で復旧したが、楕円の美しい53の番号板は失われた。 戦前戦後とも名鉄の農産物多忙期には、豊橋線の応援に出た。写真(コピー)は、昭和25年頃、鳴海でモ800と並んだ所で、写真はボルタ版の影絵並みだが、側面の田口のマークがかすかに分かる。その後、本機は600V化して渥美線の貨物を牽いたが、のち解体された。 東急車両へ行ったもとデキ54は健在で、抑速も残っている。 3 GEの万能マスコンC36 GEの古い総括制御のMコントロールは手動と自動があったが、アメリカの電車の大量化に伴い、大都市では連結運転が容易な自動が主体化し、WHのAB制御とも混結するまでになった。 1900年代のGEの自動進段マスコンは、C35が標準化されたが、1910年頃よりC36系が長期大量に使われた。 図に示したのは1914年、省電モハ1のC36で、S1、S、P1、Pの4ノッチである。 主ハンドルはバネ入りで正転前進、逆転後進で扱いやすく、その後身の省電MC1形マスコンはS1、S、Pの3ノッチで、戦後まで大量生産された。後には中小メーカーでも作られ、扱いやすさと簡素な構造からマスコンのベストセラーとなった。 MC1は、省電のPC(省形式CS1)など用として制御電圧100V、600Vで使われたが、のちには私鉄でも多く使われた。 図は、原点のC36Dのフェースプレートで、モハ1のMコントロールに使われ、制御電圧は600〜700Vであった。 駅弁掛け紙の楽しみ 2 津田 和一 前回、関急のサンドイッチで終ったので、その続きを見てみることにする。残念なことにと言うべきか、或いはなくて当然と言うべきか、戦中・戦後の時代については全く分らない。戦後、いつ頃から復活したのかも分らない。ただ、小さいときのおぼろげな記憶からすると、サンドイッチの復活があって、暫くして食糧事情が良くなってから駅弁が復活したように思う。それでサンドイッチの掛け紙があるかと思って探してみたが見当らない。 近鉄の楽しみは駅弁もさることながら、沿線の風物・歴史にあると言っても過言ではない。信貴生駒の山なみに始まって、木曽三川濃尾平野に至るまで何度乗っても飽きることがない。その合間に駅弁を広げているとアッという間に2時間の旅は終ってしまう。近鉄では駅弁は駅売り以外に車内販売(これは国鉄よりも早い時期に始まったと記憶している)でも売っていて旅を楽しくしてくれる。駅弁を扱っているのは近鉄の子会社、近鉄観光であるが、地域地域に別組織があって、各々がいろんな駅弁を売っているので、新幹線のようにJR東海の子会社の独占だけで、どこで買っても同じものという様なことがない。 最初のものは1978年9月の伊勢近鉄食堂の駅弁で、松阪牛の本場だけあってズバリ牛肉弁当と名付けている。中身については記憶がない。掛け紙ではなくフタであるのが残念だし、デザインも何を意味しているのかも分らない。しいて言えば和紙に着色して山なみをデザインしたのかと思えるが、地域性もないし面白くもない。ただただ牛肉を宣伝しているだけのものである。 次の包み紙は同じく1978年9月のものであるが、大阪/グリル近鉄と伊勢/近鉄食堂と名古屋/弁当調理所の共同の駅弁である。多分、特急の車内販売だったと思う。写真を並べただけの安直なデザインであるが、吉野山の桜、奈良公園、志摩の海女と沿線の名所・名物を並べ、旅情をかき立てるものがあった。 同工異曲のものが三番目のもので、これはフタであるけれども京都・奈良・志摩の写真と京阪奈志摩名古屋の代表的なおみやげをひとつづつ示している。 内身は普通の幕の内弁当であった。近鉄は沿線に日本を代表する観光名所を数多く持っているので、この様に写真を並べるだけでも充分に掛け紙になっている。 それから、暫くたつとガラッとデザインが変った。4番目のものは名古屋名物の郷土英傑行列の絵があしらわれたものになった。この駅弁は近鉄観光の名古屋調理所製造である。名古屋調理所製造であるから郷土英傑行列の図柄になっているのか、この時期の駅弁が大阪、伊勢調理所でも同じ図柄なのか、大阪・伊勢では別の図柄だったのかは残念ながら分らない。 しかしながら、7ヵ月後の5番目のものは大阪のイラストに昔の大阪のてまり歌を載せていて名古屋調理所製造なので、ある一定期間は同一図案だったと思われる。それでは一体どれくらいの図柄があったのだろうか、興味を覚えるが今となっては調べようがない。 その後も近鉄にはしばしば乗っているが駅弁を買うような時間帯に乗ることがあまりなくて、10年程後のものしか残っていない。経営合理化か、担当者に掛け紙に対する関心がなくなったのか分らないが、面白みのないものになってしまった。 デザインは全く同じで色が違っているだけで、扇面の部分に花があしらってあるだけという単調なものになった。 私鉄・国鉄を問わず、車窓は開閉が出来なくなり、駅弁は車内販売が主体となってしまい、駅でも駅弁の売子はいなくなり、店頭でしか買えなくなり、その駅弁も幕の内弁当はどこの駅のものもかわりばえのしないものになった。近鉄ではないが、最近、奇をてらったような特殊弁当が高い値段で売られるようになり、一つが数万円もするものが現れたりすると庶民の楽しみが又一つ金儲けのために奪われて行くような気がしてしかたがない。 昔のような素朴な旅を楽しむ時代はもはや返って来ないのかと思うと淋しい思いがする。 絵葉書を楽しむ (3) 熱田電気軌道の電車? 藤井 建 あるネットオークションで「熱田電車」なる絵葉書を入手した(左下写真)。熱田電気軌道を描く絵葉書として知られているのは、『名古屋鉄道社史』(昭和35年刊)や鉄道友の会名古屋支部報の『パノラマ』112号に掲載されたもの(いずれも同じもの)が唯一ではなかろうか。 水族館前停車場と説明されるこの絵葉書に写る電車は小さくはっきりしない。それに比べ、今回入手したものは、電車のほぼ全容をとらえており、熱田電気軌道のものであれば、貴重な一枚となる。しかし、疑問点も多いのも確かである。 まず、絵葉書下段に「明治紀念博覧会館正面之光景」とある明治紀念博覧会なるものが名古屋で開催されたという記録が見つからないのである。明治紀念博覧会自体は大正2年に上野公園で開催された記録があり、福岡や京都でも開催されたというから名古屋でも開催された可能性はないことはない。 話はかわって熱田電気軌道の創始者である山田才吉に移ろう。各種文献にあたるとこの山田才吉はなかなかの人物であることがわかる。 守口漬けを開発し、名古屋で初めて缶詰会社を興し、日清・日露の両戦争に缶詰を納め大儲けをし、財をなした。また、東陽通りが開通すると、大料理旅館「東陽館」を開業し、一大社交場とした。極めつけは、東築地五号地といわれた埋立地界隈に水族館、料理旅館「南陽館」を建設し、一大リゾート地としたことであろう。 そして、そのアクセスとして敷設したのが「熱田電気軌道」である。明治43(1910)年7月のことである。 この水族館も南陽館も大いに賑わったが、電車の経営は芳しいものではなかったという。大正元年9月の台風で水族館も南陽館も破壊されてしまう。電車の変電所も被害を受け、名古屋電鉄から受電することになった。その後大正8年4月に熱田電軌は名古屋電鉄に合併される。 山田は大正9年に規模は縮小するも南陽館を再建し、水族館を併設したという。 さて、絵葉書にもどろう。電車の背後に見える展覧会場の建物や舗装された軌道敷きを見ると、華美を好んだ山田の好みが見て取れる。ただ、明治紀念博覧会が開催されたのは、少なくとも大正2年以後と思われるので、台風で壊滅後に展覧会のためだけにこうした施設が造られたのであろうか?はなはだ疑問である。 大正9年の再建後では、博覧会としては遅すぎるし、名古屋電鉄の合併後であるから、熱田電軌の電車とはならない。電車自体は名古屋タイプの電車と思われるが、ナンバーが二桁に見えるのも気になる点である。 熱田電気軌道としては、わずか10年ほどの存在であり、不明な点も多い。山田才吉の人となりを含め、興味をそそられる。 絵葉書の疑問を含め、研究を進めていきたいと思っている。 青春18きっぷで奈良市写真美術館へ 奈良の鉄道−明治・大正・昭和への旅− を見に行く 藤井 建 7月31日、夏休みが取れたのとカミサンが仲間と使った青春18きっぷの残り1回分をくれたのとで、ちょうど「奈良の鉄道−明治・大正・唱和への旅−」展も開催されている入江泰吉記念奈良市写真博物館を訪ねた。 岡崎駅を7時4分発の大垣行き特別快速に乗る。通勤客に混じってリュックを背にした18きっぷ愛用者とみられるおばさんたちも目に入る。7時53分、岐阜に到着。57分発の普通米原行き(117系)にホームタッチで乗り換える。これが正解で、次の大垣まで乗っていたら階段を使ってホームを移動しなければならないし、座ることもできない。思ったとおり、大垣からは青春きっぷ組が大勢乗ってきたが、座ることもままならないようだ。 8時47分、米原着。ホームの向い側には快速姫路行きが発車を待っている。一人ぐらい座れるだろうと思ったが、立ち席もかなりいる。京都まで立ちん坊を覚悟したが、運よく彦根で座ることができた。 ウトウトしていると9時43分、京都着。トイレに寄り、お茶を購入し、奈良線ホームに行くと、みやこ路快速奈良行きが入線している。さすが世界遺産の奈良行きで、外人客それも団体らしいのが結構目につく。一両目に空席を見つけ、着席。9時50分発車、奈良着10時33分の予定が少々遅れて到着。 ここまで3時間半。なんとか我慢できる時間である。国鉄・JRを含めて奈良駅で下車するのは初めてである。過去に来たのは、車か近鉄であった。奈良駅周辺は連続立体化工事が進んでおり、行き止まり線の桜井線のホームだけがまだ地上ホームである。外に出ると、神社風の外観を持ち、存在感のある駅舎はまだ健在であった。 前置きはともかく、美術館に向かう。ホームページで見たアクセスに従い、駅前から奈良交通 の市内循環のバスにのり、破石町(わりいしちょうと読む。難読地名の一つであろう)で下りる。 周辺を見ると、控え目な案内表示が目に付く。 それに従い、住宅地を歩くこと約10分。瓦葺の大屋根を持つ建物が現れる。目的の写真美術館である。隣接する新薬師寺に配慮した設計だといわれる。展示室や収蔵庫は地下にある。拝観料否入場料は大人500円也。 展示室の前にはかなりの数の古レールが展示されている。解説文によれば、これらの古レールは、平成18(2006)年に大阪の旧三越百貨店の解体現場から発見されたものだそうだ。建設にあたって鉄筋として使用されたもので、明治初期の双頭レールも展示されている。古レールマニアは必見の展示である。なお、この写真撮影に関しては受付嬢に了解を得ている。もちろん展示室内は撮影禁止である。 早速、展示室に入る。まずは国鉄からである。 まさかオリジナルを展示しているのではないだろうが、サイズはまちまちである。キャビネもあれば四つ切もある。奈良駅等での学徒出陣の記念写真が目に付く。本美術館建設の礎となった入江泰吉氏撮影の機関庫の写真もある。鉄道ファンが撮ったと思われる車両中心の写真よりも何気ないスナップ写真の方が目を引き付けるのはなぜだろうか。鉄道と生活の関わりや風景に溶け込んだ姿が如実に表れているからかもしれない。NRAの写真展でもそういう目線で選んだものが多いような気がする。先に上京したとき、新橋の鉄道歴史展示室(旧新橋駅)でもちょうど「昭和を旅する薗部澄(そのべ・きよし)写真展が開催されており、やはり同じように感じたものである。 国鉄の次は、大軌(大阪電気軌道)、近鉄、奈良電で、奈良〜油坂間の併用軌道の写真や大軌の畝傍線建設の電動無蓋車(ボギー×2と単車)の写真が印象に残った。印象深いものといえば、京終(これで「きょうばて」と読むそうだ)から小倉を結んだ「奈良安全索道」の写真は、インパクトが強かった。あと、大和鉄道、天理軽便鉄道のレールカー、信貴生駒電鉄など奈良の鉄道を網羅しており、前述したように古レールや沿線案内図、路線図などもケースに入れて展示しており、まさに奈良の鉄道展といってもよい。 これだけの展示であるのに、筆者が見ていた1時間弱の間に訪れていたのは、平日の午前中ということもあろうが、女性1人、男性3人という寂しい状況であった。 ついでにいえば、同時に展示していた入江泰吉の「大和の道」もなかなか見応えのある写真が並んでいた。出口を出たところで大仏鉄道の遺構をたどるビデオの上映も行っていた。 駅に戻り、もう一つの目的である大和の一之宮である大神(おおみわ)神社に詣でるため、桜井線で三輪に向かう。 三輪から奈良に戻り、駅前をうろつくが暑いので、予定より一本早く加茂に向かう。加茂駅に近づいた線路際にSLの保存車があるのを目にした。駅から7、8分の距離であろう。関西線の亀山行きは16時11分発であり、見てくるには十分の時間がある。保存車はC5756で、 まだ塗り替えたばかりであろうか、ピカピカの状態である。写真を撮って、駅に戻るとキハ120系単行が発車を待っていた。 (了) 伊藤注:「図」や写真などはは省略しています。 |
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