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No.6219 (Re:6218) 【鉄道博物館】企画展:走るレストラン〜食堂車の物語〜 別紙1
ひろやす/伊藤(vnnc8158) 2019-08-30 23:03:32
別紙1

<主な展示内容>

T 食堂車のはじまり【1860年代から1900年代初めまで】
 1860年代にアメリカで誕生した食堂車は、長距離列車の乗客に対するサービスとして生まれました。同様に日本でも、1872(明治5)年に新橋〜横浜間の鉄道が開業して徐々に鉄道網が全国に広がりを見せ、乗車時間が長くなる中で、乗客への食事の提供が必要となりました。1899(同32)年5月に山陽鉄道(現・JR山陽本線など)が京都〜三田尻(現・防府)間に最初の食堂車を連結しました。当時食堂車を利用するのは主に富裕層や上流階級で、洋食が提供されました。その後、官設鉄道や他の私設鉄道にも食堂車が普及していきました。

U 鉄道国有化後の食堂車【1900年代初めから1940年代半ばまで】
 鉄道が国有化され、全国の主な私設鉄道はすべて国有鉄道となりました。食堂車はそれまで洋食一辺倒でしたが、三等急行列車に和食堂車が連結されると、一般庶民の利用も徐々に増えていきました。食堂車を運営する複数の事業者はお互いしのぎを削り、味やサービス、メニューなどを競いました。戦前は食堂車の最も華やかな時代でした。ところが戦争の波がしだいに押し寄せてくると、食堂車の営業も運営の合理化を図る必要性が出てきました。列車食堂を運営していた複数の事業者を統合し、日本食堂株式会社が設立されました。こうして鉄道省の監督のもと、1社による独占的な運営がスタートしました。

V 食堂車の廃止と復活【1940年代半ばから1950年代半ばまで】
 戦争が激化してくると、鉄道は旅客輸送から軍事輸送中心へシフトしていきます。そしてついに1944(昭和19)年3月末をもって食堂車、寝台車、一等車はすべて廃止されました。翌年、戦争に敗れた日本は、連合国軍の占領下で統治されることになります。連合国軍は、大きな被害を被った日本に対し車両などを接収し、食堂車の利用を連合国軍の軍人およびその家族らに限定しました。このような状況下で日本の鉄道は必死に復興を目指し、1949(同24)年6月には公共企業体日本国有鉄道が発足しました。同年9月には特急列車も復活、食堂車も5年ぶりに営業を再開しました。

W 食堂車の時代【1950年代半ばから2000年代まで】
 高度経済成長により日本経済が発展する中で、鉄道技術の発達もめざましいものがありました。蒸気機関車から電車主体の時代へ変わり、東海道新幹線に象徴されるように列車の高速化が図られました。所要時間は短縮され、気軽に軽食を楽しめるビュフェが新しいかたちとして誕生しました。一方、食堂車も大衆化の時代を迎え、1968(昭和43)年10月の「ヨン・サン・トウ」ダイヤ改正で特急が大増発されたのを経て1970年代前半には食堂車のピークを迎えます。しかしその後はさらなる列車の高速化、従業員の確保の問題等から次第に食堂車は数を減らしていき、廃止へと向かいます。その一方で1987(同62)年に国鉄が分割民営化されJRグループが発足すると、各社で工夫を凝らした運営を行うようになりました。「北斗星」を皮切りに豪華寝台特急がデビューし、当時の食堂車ではフランス料理のフルコースなどを楽しむことができました。それまでの食堂車のように、誰でも気軽に利用できるものではなくなりましたが、こうした「特別感」のある列車の登場は、現在のクルーズトレインへ続く道筋となりました。

X 食と鉄道の新しいカタチ
 列車の高速化と引き換えに姿を消すと思われた食堂車ですが、列車が単なる移動手段ではなく乗ること自体を「目的」とした列車の登場により、新たな列車と食事の関係が生まれました。JR東日本が誇るクルーズトレイン「TRAIN SUITE 四季島」は、JR東日本が2017(平成29)年5月1日から運行を開始した周遊型の列車です。「TRAIN SUITE 四季島」のダイニングでは、旬の食材を使った料理が堪能できるほか、厨房の調理スペースを一部外から見られるようにし、料理人の調理風景を生で見られるようにした「オープンキッチン」など、数々の工夫の中にその新しいかたちを見ることができます。
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