ひろやす/伊藤(vnnc8158) 2011-01-05 21:43:24 |
日経おとなのOFF 特別編集
日経ホームマガジン 電車とバスと徒歩で行く 『奥の細道記行』 写真/文 櫻井 寛 題 名: 日経おとなのOFF 特別編集 日経ホームマガジン 電車とバスと徒歩で行く『奥の細道記行』 写真/文 櫻井 寛 発 行 日: 2011年1月30日 写真・文: 櫻井 寛 発 行: 日経BP社 発 売: 日経BPマーケティング 定 価: 本体1524円+税 図書記号: ISBN978-4-8222-6017-0 雑誌66902−88 SAKURAI,Kan 鉄道を中心に世界中の乗り物を取材するフォトジャーナリスト。年間250日以上を世界のどこかで乗り物に乗って過ごしている。本連載を再編集した『豪華列車の旅』『ローカル列車の旅』(小社刊)のほか『鉄道世界遺産』(角川書店)、監修を手掛ける漫画『駅弁ひとり旅』(双葉社)などが好評発売中。日本経済新聞水曜日夕刊にコラム「にっぽん途中下車」連載中。 本誌に掲載の記事は、日経おとなのOFF(2009年4月号〜2010年12月号)に掲載された記事を再編集したものです。 掲載している内容は基本的に取材時のものです。 目次 4 出立編 14 陸奥編 24 陸奥出羽編 34 出羽編 44 日本海編 54 北陸編 64 越前美濃編 74 帰郷編 84 野ざらし紀行・東海編 94 鹿島紀行編 104 笈の小文・関西編 114 更科紀行・信濃路編 124 近江路・嵯峨野・大坂編 目次詳細 『奥の細道紀行』その一◎出立編 深川〜那須 並び地蔵は日光の隠れた名所 バスを降りて居住まい正した雲厳寺 人生いろいろ楽しみはあるが、何が一番かと問われたなら“旅”と答える。 そんな私が最も敬愛する“旅の大先輩”は、俳聖“松尾芭蕉翁”。 いつの日か、『おくのほそ道』2400kmを辿ってみたいと思っていた。 電車とバスなど公共交通を駆使した『電バス・奥の細道』の始まり、始まり。 『奥の細道紀行』その二◎陸奥(みちのく)編 白河〜松島 黒塚で鬼婆の姿に腰抜かし、 白石の妻の逸話に涙する すでに江戸の昔から、俳聖“松尾芭蕉翁”を慕う 数多(あまた)の旅の大先輩が『おくのはそ道』を踏破している。 ならば私にできること。それが、電車やバスなど公共交通徹底利用。 題して『電バス・奥の細道』その第2回は陸奥路、いざ出発進行! 『奥の細道紀行』その三◎陸奥出羽編 平泉〜山寺 分水嶺から歩いて5分、「のみしらみの家」 1015段の階段に足が震えた立石寺 「電バス奥の細道」今回は「陸奥出羽編」と題し、平泉を起点に、 陸奥より出羽へと歩を進める。その間を分かつのが、尿前の関であり、 その先には、奥の細道の最大の難所となった山刀伐峠が控えている。 公共交通利用がモットーの私だったが、ついに、山刀伐峠を前に行く手を阻まれた。 『奥の細道紀行』その四◎出羽編 新庄〜酒田 船が揺れ、肝を冷やした最上川 霧と氷雪の月山登山に挑戦 全長2400km、160余日に及んだ旅程の中でも 最大のハイライトと呼ぶべき「出羽三山」の巻がやって来た。 出羽三山、すなわち羽黒山、月山、湯殿山であり、 ことに月山は標高1984m、「奥の細道」の最高地点である。 『奥の細道紀行』その五◎日本海編 象潟〜親不知・市振 九十九島の上から思う三百年前 出雲崎海が霞んで佐渡見えず 象潟は「奥の細道」最北の地である。八十八潟と九十九島からなる象潟の 絶景を愛でたなら、あとは南下するばかりなり。 象潟から市振までは400km、日本海に沿う風光絶佳なルートである。 羽越本線きってのジョイフルトレイン「きらきらうえつ号」に乗って出発進行! 『奥の細道紀行』その六◎北陸編 奈呉の浦〜大聖寺 もてなしの心と風景の美しき 芭蕉お気に入りの小松と山中温泉 新潟、富山県境の市振の宿を越えると、 いよいよ、その六「北陸編」。電車ひとつ見ても、 これまでとはずいぶん違うなと思う。 明らかに関西の文化圏に入ったようだ。 『奥の細道紀行』その七◎越前美濃編 福井〜大垣 威厳に満ちた西行ゆかりの名木 芭蕪の句碑が並ぶ、むすびの地大垣 今回の旅の最後には、JR大垣駅で下車し、 芭蕉翁が、伊勢長島に向けて舟に乗り込んだ、「むすびの地」を目指した。 その道すがら、遊歩道に並ぶ芭蕉の句碑を見ながら、 私はある決心をした。 『奥の細道紀行』その八◎帰郷編 芭蕉生誕の地は伊賀市! 伊賀鉄道の忍者電車で訪ねる 私こと櫻井寛は、電車とバスの世話になりながらも『おくのほそ道』の全行程を7カ月かれて走破し、 2009「奥の細道紀行320年記念」実行委員長の大垣市長より認定証を授与された。 ところが、むすびの地、大垣にて一つの疑問が生まれた。はて芭蕉翁、大垣から先はどちらに行かれたのであろうか? それが知りたくて飛び乗った電車は養老鉄道だった。 『奥の細道紀行』その九◎野ざらし紀行/東海編 江戸〜箱根〜大井川〜名古屋〜甲斐 箱根、富士川、大井川 難所の今を旅する 私の『電バ歩・奥の細道紀行』は伊賀で終わるはずだった。 ところが、である。伊賀の芭蕉翁記念館で目にした 1枚の地図には、芭蕉翁のすべての旅の道程が描かれていた。 その瞬間、次なる旅は決まった。その名は『野ざらし紀行』! 『奥の細道紀行』その十◎鹿島紀行編 江戸・深川〜行徳〜八幡〜鎌ヶ谷〜木下/布佐〜潮来〜鹿島神宮 1236mの北浦鉄橋を越えて 終着駅鹿島神宮を目指す 『鹿島紀行』は、芭蕉が『野ざらし紀行』の旅から江戸に戻った翌年の 貞享3(1686)年8月に、愛弟子の曽良と宗波とを伴って出立した旅の紀行文だ。 本文は1080字余り。短いからこそ、あれこれ想像力がかき立てられる。 鹿島紀行なれど、鹿島で終わらないところもミステリアス。 『奥の細道紀行』その十一◎笈の小文・関西編 伊良湖〜鳥羽〜伊勢〜吉野山〜高野山〜和歌浦〜須磨・明石 ロープウェイと電車とケーブルカーと バスで4時間、吉野山から高野山へ 『笈(おい)の小文』は1687(貞享4)年10月、江戸・深川を出立し一路東海道を下り、 伊良湖を経て伊賀に帰郷し、新年を迎え、春3月、愛弟子.杜国(とこく)とともに、 吉野、高野山、和歌浦、奈良、大坂、須磨、明石を巡った旅の紀行である。 芭蕉翁はこの旅で、旅人生最南の地となる和歌浦と、最西端の須磨・明石に足跡を残している。 『奥の細道紀行』その十二◎更科紀行・信濃路編 娯捨山から名月を眺める 駅付近は日本三大車窓の一つ 貞享5(1688)年8月、芭蕉翁は名月の地として名高い、信濃の国は 更科の姨捨(おばすて)山へと旅立った。お供は越人ほか1人の3人旅。『更科紀行』である。 越人は「さらしなや 三よさの月見 雲もなし」と、十五夜を中心に 三夜とも雲もなくよい月見ができたと詠んでいる。 『奥の細道紀行』その十三◎近江路・嵯峨野・大坂編 終焉の地を訪ねる 芭蕉翁の墓は義仲公の隣に 『おくのほそ道』紀行を大垣にて結んだ芭蕉翁は伊勢神宮参拝後、郷里の伊賀に里帰りした。 旅はそこで終わったかのように見えたが、11月、奈良を経て京に入り、 近江の国は膳所で越年。正月3日に伊賀上野に帰郷するも 3月膳所、4月石山寺、6月京都、7月堅田…と、旅は続いていた。 |
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