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No.575 (Re:573) 【名古屋レール・アーカイブス】NRA NEWS No.5 特集:白井 昭の一口メモ:昭和10〜20年の体験
ひろやす/伊藤(vnnc8158) 2009-03-16 18:11:05
非営利活動法人 名古屋レール・アーカイブス         2009年3月
 http://nagoyarail-acv.or.jp/nra/
   NRA NEWS No.5



特集:白井 昭の一口メモ
 歴史において何より体験は強いと思う。私の昭和10〜20年の体験は、NRAニュースには内容的には不足かと思うが、何か参考になると思い、また、生存中に後世に伝えたいと願い、掲載するものである。
 白井 昭

1 大同星崎の電気機関車
 昭和20年初め、私は5式戦闘機の材料集めでしばしば星崎工場へ行った。そこで目にしたのは、煤だらけの工場内を走る入換機関車であった。それは笠寺からC50に引かれて入る省の貨車より遥かに小さな熔鋼や製品の特殊鋼を運ぶトロ2〜3両を引いて走り回るミニELでした。ELは煤で真っ黒で、人より低い箱形だが、釣り掛け音を響かせて走り回る姿が記憶から離れない。
 当時の名市バスの電池バス(E1〜E60?)は、ノロノロだったが、このELは活発だった。今のフォークリフトの役目だが、当時は手押しのトロッコ軌道が普通で、効率が高かった。
 大同会のOBの皆様から、これがバッテリー機関車で、充電所のあったことを教えられ、お礼を申し上げたい。

2 名鉄モ1400形電車
 戦時中、星崎工場の工員は名鉄の大同町駅から通う人が多かった。しかし、輸送は三菱大江が重点とされ、大同は苦しかった。
 終戦近くの昭和19年頃、大同製鋼は私有電車2両を日本車輌で作り、常滑線で大同専用の通勤電車を走らせようとした。
 当時、電車の新造には鋼材を提供すること条件で、これは大同が負担して名鉄と打ち合わせの上、日車へ発注した。日車の受注番号は、名鉄何番でなく、大同1、2となっていた。名鉄ではデワ改造のモ1300形の次のモ1400形とし、HL、AMMのMTを予定していた。
 日車の図面は完成し、写真(1)[伊藤注:省略します]のク2140形と同型の3扉、椅子なし車(MTとも)であったが、それ以上進まないうちに終戦となった。車号はモ1401、ク1402とも聞いたが、認可申請以前で、名鉄側の書類はなく、日車の図面のみ残った。

3 捕虜専用電車モ1061
 昭和17年暮からイギリス、オランダ軍の捕虜100余名が日車でSLや貨車の製造に当たることとなり、有松の丘上の日車寮を捕虜収容所とした。(戦後も日車寮に)朝夕、有松裏〜神宮前にモ1061単行の専用ノンストップ電車が運転された。
 戦争後半にはD52とトキ900が作られた。
 捕虜は、ラジオで戦勝を予知しており、米軍も有松を知っていて、進駐までパラシュートで食糧を投下していたが、外れは日本人へのプレゼントになった。これを拾ったことのある人も年々減っている。
 秋には、省線からオハ35系の客車がデキに引かれて有松裏の駅に入り、生存者全員が帰国した。この時の写真は新聞に出たが、それ以前の情報は、すべて口伝えによるものである

4 豊川鉄道の下汽車
 戦前、豊橋から北に西側から東海道の複線、名鉄、豊川鉄道の複線、一番東側に豊川鉄道船町線の単線が走り、SL、電車、SLの順になっていた。
 船町線は豊川の1形SLが木材を満載したトを船町の港から急勾配を豊橋駅へと引き上げていた。
 豊川(とよがわ)を下る木材は多く、イギリス生まれのCタンクはいつも活躍していた。しかし、沿線の人はC53や名鉄3400に対し、この汽車をバカにしていた。他の4線が高架なのに、船町線は地平で一段低い所を走るため、沿線では下(した)汽車と呼んでいた。もう、この名を知る人も少なく(私と同じ80歳以上)、次代に伝えたい。
 豊川鉄道線の旅客の船町駅は、今も高架上にある。
 次の写真2[伊藤注:省略します]は、トーゴーカメラで、昭和20年に代用フィルムで写した。SLは浜松工機部で化粧煙突を裸にされたが、番号は省の1285ではなく、1・2のままであった。これは貴重な写真で、これからすぐSLはB6からC50に代わり、木材の引き上げが続いた。
 今は草の中だが、レールは残り、船町貨物駅はコンテナー基地となり、昔からの日通がある。

5 常滑駅物語
 名鉄常滑駅は、創立以来貨物上位で、旅客駅は片隅に小さくあり、収入でも貨物の主役が続いた。関東では常磐線がもっとひどく、大量のトムの海の端に古びたミニ駅舎(小屋)があった。
 常滑付近の本線はずっと単線だったが、その頃、製陶会社の陶土を運ぶトロッコ軌道があった。これを知る人も少なくなったが、常滑線の下を立体交差していた。この軽鉄道は、昭和初年に廃止された。
 写真3と4[伊藤注:共に省略します]はずっと新しく、伊勢湾台風後の常滑駅で、まだ貨物上位、街に煙突は400本以上あり、常滑の街が全盛の時代であった。
 名鉄局ポム1も懐かしく、水没線は1m以上に達している。ト224の方では、架線柱ビームの曲がり具合をご鑑賞ください。左が車止め側の南側で、ト200の積荷は焼き物です。

6 常滑の陶業トロッコ
 常滑陶業史に詳しい柿田富造氏よりトロッコの資料を戴いた。このトロッコは明治末、電車開業より早く、陶栄会社により常滑線と直角、東西に敷かれた。
 トロッコは陶栄工場と船着き場を結んで原土と土管などの製品を運んだ。線路は短かったが、途中に番所山という山があって、トロッコはトンネルで抜けていた。
 大正2年、常滑線電車が港まで通じ、電車はトロッコの上を立体交差した。
 番所山は、大正時代に埋め立て用に切り取られたが、トロッコは電車開通後は製品を常滑駅の貨車まで運び続け、昭和初年に廃止された。

7 露橋信号所について
 名鉄百年史に大戦末期、神宮前の貨物ヤードが過負荷し、東海道線の露橋信号所に助けられた、との記事がある。
 露橋信号所は、大正と昭和初期の2回存在したが、短期、仮信号所的なもので、戦中のものは国鉄の記録にもない。
 今の山王信号所の南、露橋公園辺りが戦中の地図では軍事空白で、昭和21年6月の米軍空撮では、数本の線路と建屋らしきものが見える。
 一つの推定として、大戦後期、各航空機工場の入出荷で熱田駅、名古屋港駅、名鉄の東名港、伝馬町、神宮西ヤードは満杯のため、露橋にヤ―ドを作り、軍専用なので地図には部外秘としたが、戦後は早くレールを撤去し、のちに露橋公園などになったことが考えられる。
 また、使用したSLは名港、白鳥と共用で、C50が考えられる。
 国鉄文書は何もなく、今後の聞き込みと調査が待たれる。
 本件については、鉄道友の会の楠正昭氏に格別の御教示を戴き、お礼を申し上げます。

8 終戦前後の名古屋日記
 昭和20年8月15日を挟んだ私の日記は、幼稚な内容ながら、何かのご参考になると考え、ご紹介したい。
 その頃、私は豊橋の自宅、名古屋御器所の下宿、名鉄揖斐線の疎開先を往来していた。各市とも焼け野原だが、市電は良く走り、連絡は全て手紙で、1銭5厘のハガキも不着は少なかった。東海道線は貨物中心となり、C53の貨物転用はその廃車を早めた。一方、敗戦後は米軍のP51が京都御所の前へ離着陸するという無茶な時代であった。
 記録は全てメモでやっていて、写真は僅かである。というのも8月15日以前は、日本軍が怖く、以後は進駐軍が怖かった。でも20年末近くになると、米軍は普通の写真なら良いと分かり、代用フィルムでぼつぼつ写した。

・昭和20.7.19
 朝、焼け野原の豊橋より名鉄モ912+ク2002の急行へ。美合でP51の銃撃を受け、逃げる。死者なく、金山橋へ1時間延着。金山線のモ756+ク2101で新名古屋より市電1427、今池よりトロバス12006で御器所着。この夜岡崎全焼す。
・20.7.24
 市電高辻車庫へ加藤主任を訪ねニュースを交換。145(木造)はGEのB18L、157(鋼体化)はB18Eが付いていた。
 高辻には休車6と11(八事)、N86、N89(京都)が居た。市電の所属プレートは移動で無効とのこと。
 帰りは空襲警報で市電が止まり、歩いて帰った。御器所トロバス線に大型爆弾、1000ポンド級か。大曽根三菱の流れ弾。命はあきらめている。
・7.28夜
 一宮、大垣空襲、全焼。
・7.30
 艦載機F6F、F4U大挙名古屋低空に、全ては休みに。この頃友軍機は1機も見ず。
・8.6
 広島原爆。某教授、これは原爆だと断定。戦争は終わりだ〜〜〜しかし、この発言が漏れれば、憲兵隊行きである。
・8.7
 昼間、B29の豊川空襲(2,500人死)
 名古屋市電枇杷島新線を見たいが、工事遅れ、未成とのこと。洋服買入す、200円にコメ1升。
・8.15
 休戦、空襲なく灯火管制やめ。街に明かりがつく。ラジオの海ゆかばなどは消え、これで命が助かったのか。
・8.18
 食糧のため豊橋へ帰省。鶴舞よりD50147、ナハ22000(新ナノ)で名古屋へ。小田原生きC51210、オハ34129に乗り、3軸のオハ8513も入っていた。空襲もなく30分延で豊橋着。
・8.19
 サツマイモなど食糧重し。自宅に近い船町より省電モハ10174、クハ15046で豊橋経由金山橋へ。省電モハ10はのちに客車代用としてSLが引いて飯田線を走った。
8.27
 名古屋低空をF6F、P51、スピットファイア飛ぶ。
・8.28、29
 名古屋低空をF6F、B29(観測?)飛ぶ。B29の美しさに改めて驚く。
・8.31
 初めて東海道の客レに貨車使用を見る。
・9.2
 豊橋よりSL列車で岐阜へ。途中蒲郡線でSL709、安城支線でモ461、一宮入れ替えのモ1301を見る。忠節よりモ71単行で相羽下車。(709は以後東名港、各務原へ)
 本日、敗戦の協定成り、日本は事実上アメリカ領となる。
・9.5
 黒野発モ52で忠節へ。岐阜でB6の2426、2474、高山線のC58242(山)を見て豊橋へ。高山線のマシ、名タヤのホム1200もいた。
・9.6
 豊橋低空にC46、PB4Y飛ぶ。ナハ22600(東ヨロ)に立って名古屋着。
・9.14
 名古屋飛行場(港)の整理奉仕。老朽91戦2機、海軍3式初錬等5機は残す。しかし、A7など三菱新鋭機は不在。
 どこへも市電で行った。名古屋港駅は長らく6250だったが、今はC50に代わっていた。

 この頃、食糧不足で体力なく、切符は証明書を出して並んで買う。私の日記は文語体。
 この直後から多くの米兵と軍用車が名古屋港から各地に向い、小牧には5AF(第5空軍)が進駐。各所にRTOができて、進駐軍時代に入った。各地に星条旗が立つのはその頃で、敗戦直後はしばらくの空白期間であった。



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