NEWS RELEASE:全般      3
No.573 【名古屋レール・アーカイブス】NRA NEWS No.5 新金沢文庫がNRAに寄託・移管されました 他
ひろやす/伊藤(vnnc8158) 2009-03-16 18:04:44
非営利活動法人 名古屋レール・アーカイブス         2009年3月
 http://nagoyarail-acv.or.jp/nra/
   NRA NEWS No.5



新金沢文庫がNRAに寄託・移管されました
 個人の鉄道関連蔵書としては日本最高を誇る新金沢文庫をNRAが管理させていただくことになったことは、NRAの対外的な信用度を高める上で有難いことです。
 NRAとしては、今後、新金沢文庫の整理、データベース化を早急に進めるとともに、閲覧規程を整備して多くの方に利用して頂くようにしたいと考えています。いましばらくお待ちください。
 ※別項 和久田会員寄稿の『「新金沢文庫」解題』をご覧ください。


2009年度総会開催
 2009年1月25日(日)午後3時から則武コミュニティセンターにおいて2009年度総会を開催した。出席者14人、委任状提出者6人で、総会は成立した。その結果について、主なものを紹介する。

★ 2008年度活動報告
 ・第2回定期総会の開催 2008年2月2日
  役員改選、各種規程の制定等
 ・ホームページの開設(5月)
 ・第1回展示会の開催 2008年9月18日〜
  24日、栄のチカシンギャラリーで開催
 ・NRA書庫及び所在地の移転(10月)
 ・新金沢文庫の受け入れと管理(11月)
 ・NRAニュースの発行(3号・4号)
 ・NRAの紹介
  11月3日の中日新聞朝刊の「NPO最前線」というコラムにNRAが紹介された。
 ・利用規程の検討
 ・新規会員の加入 展示会、新聞記事の影響もあって、次の5名の入会があった。
  青木幹行・伊東重光・魚住哲彦・高田秀夫・山口忍
 ・資料の整理とデータベース化

★ 2009年度活動計画
 ・第3回定期総会の開催(2009年1月25日)
 ・第2回展示会の開催 9月を予定
 ・重複資料(時刻表等)の暫定保管場所の借入伊東会員と無償借入の覚書を交換(1月)
 ・利用規程の制定 資料の一般公開とも関連し、早急に整備し、臨時総会で承認を得る。
 ・資料の一般公開
 ・NRAニュースの発行(5号・6号)
 ・新規会員の勧誘・確保

★ その他
・事務所移転に伴う定款第2条の改正
・業務増に対応するため理事に伊東重光を追加
・賛助会員の入会促進と一時的な協力先企業に運営費協力を求めることを目的に、入会金を廃止する。
・事務所の作業日について、今年度の前半は、第2・第4日曜日とする。

 ※伊藤注:決算報告は省略します


事務局からのお知らせ
◎賛助会員第1号に交友社様が
 2月3日、かねてからNRAの活動に理解を示されていた交友社様が賛助会員の第1号として入会されました。
◎寄付・寄贈
 伊藤理事が「鉄道ファン」2009年3月号に寄稿したパノラマカー記事について、NRA会員の協
力を得たとして、原稿料から3万円を寄附されました。
◎会員の著作・寄稿等
・和久田康雄『日本の市内電車』(成山堂書店)
・『鉄道ピクトリアル』名鉄特集に伊藤博康、白井昭、外山勝彦、藤井建、堀幸夫の理事、会員が本文への寄稿や写真を提供しています。
◎会費納入のお願い
 2009年度会費(2万円)を下記の口座への振込又は作業日に事務局内山まで納入してください。
 なお、分割納付は2回までとし、振込手数料は送金者負担でお願いします。

 金融機関名:ゆうちょ銀行
  店  番:218
  口座番号:9197712
  預金種目:普通預金  
  口座名義:名古屋レール・アーカイブス
 また、ゆうちょ銀行間同士の場合は、
  記  号:12160
  番  号:91977121
 でお願いします。


問合せ先 e-mail: admin@nagoyarail-acv.or.jp
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No.574 (Re:573) 【名古屋レール・アーカイブス】NRA NEWS No.5 「新金沢文庫」解題 和久田康雄
ひろやす/伊藤(vnnc8158) 2009-03-16 18:11:02
非営利活動法人 名古屋レール・アーカイブス         2009年3月
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   NRA NEWS No.5



「新金沢文庫」解題
    和久田康雄

 このたびNRAに寄託した私の「新金沢文庫」について、簡単な解題をしておこう。なお、以下の書名に付けた番号は私の整理番号であり、各冊の末尾にスタンプしてある。
 まず、これらの本は私が購入したり寄贈を受けたりしたものだが、総記関係の2冊だけは昔からわが家に伝わっていた。それは1008『普国軍用鉄道記事』と1009『軽便鉄道』(ともに1905年)で、鉄道大隊がまとめた冊子。祖父が日露戦争に鉄道兵として出征した(このため私の父は鐵雄と名付けられた)関係から、浜松にあった実家の土蔵で見つかったものである。なお、普国とは日本陸軍がお手本にしたプロイセンであり、ここでいう軽便鉄道とは軍用軽便鉄道のことである。
 次に、この文庫の特色は歴史・伝記関係が多いことである。中でも私鉄の社史や公営の局史は、ごく最近のものを除いてかなり網羅されている。2151『東京市電気局十年略史』(1921年)あたりから始まり、大戦中の刊行も2087『東京横浜電鉄沿革史』(1943年)がある。また、百年史としては2567南海電気鉄道、2623伊予鉄道、2776名古屋鉄道、2861東武鉄道、2893京浜急行、2936阪神電気鉄道などが見られる。
 春秋社の「鉄道交通全書」(1936〜1939年)は、ほとんど揃っている。経済・法制関係に3074中川正左著『交通原論』、3017喜安健次郎著『鉄道法規論』など14冊(1〜12,14,15巻)があるほか、施設関係に6082古川淳三・中川一美著『停車場』(16巻)、車両関係に4011朝倉希一著『鉄道車両』(17巻)、電気関係に5047森田重彦著『電気鉄道工学』(20巻)が入っている。
 車両関係でちょっと特色があるのは、4033『Locomotive Dictionary 1909』、4034『Locomotive Dictionary and Cyclopedia 1919』、4125『Locomotive Cyclopaedia 1938』があり、同じようなもので電気関係の5023『Electric Railway Dictionary』(1911年)もあることである。これらは日本で入手した古書であり、当時の鉄道マンは先進国アメリカの技術情報をよく調べていたことがわかる。なお、こうした革装の洋書は、手入れをしてこなかったため革がボロボロになっていて、さわると手や衣服が茶色く汚れるのでご用心いただきたい。
 趣味・芸術・随筆関係では、国鉄出身の作家・上田廣の本がかなり集まっている。7430『黄塵』(1938年)、7286『建設戦記』(1939)、7044『指導物語』(1940年)、7272『歳月』(1942年)、7310『濃霧』(1946年)、7041『海底トンネル第一号』(1956年)、7387『津軽海峡』(1957年)、7242『新橋ステーション』(1966年)といった具合。1970年代後半からの紀行作家・宮脇俊三とレイルウエイライター・種村直樹の作品も、ほとんどが収められている。
 運転・時刻表関係では、庚寅新誌社の『汽車汽船旅行案内』が数冊あるのに続いて、これが公益社などと合同して成立した旅行案内社の『公認汽車汽船旅行案内』の1915年から1921年までの各1月号が所蔵されている。これはかつて古書展に揃いで出た時に、私には全部買う資力がなかったため、1月号だけを抜いて売ってもらった結果である。
 定期刊行物では、1929〜1938年発行の『鉄道』誌が揃っているが、1930年代の『鉄道趣味』誌は数冊あるだけ。それよりも『私鉄統計年報』が1949年度以降、『民鉄統計年報』を経て現在の『鉄道統計年報』に至るまで欠号なく所蔵されているのは、研究家のお役に立つのではないか。1958年度以降の『私鉄要覧』→『民鉄要覧』→『鉄道要覧』も同様である。


 NRAの作業日・打ち合わせ日は、第2・第4日曜日午前10時からです。
 ぜひ、ご参加ください。

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No.575 (Re:573) 【名古屋レール・アーカイブス】NRA NEWS No.5 特集:白井 昭の一口メモ:昭和10〜20年の体験
ひろやす/伊藤(vnnc8158) 2009-03-16 18:11:05
非営利活動法人 名古屋レール・アーカイブス         2009年3月
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   NRA NEWS No.5



特集:白井 昭の一口メモ
 歴史において何より体験は強いと思う。私の昭和10〜20年の体験は、NRAニュースには内容的には不足かと思うが、何か参考になると思い、また、生存中に後世に伝えたいと願い、掲載するものである。
 白井 昭

1 大同星崎の電気機関車
 昭和20年初め、私は5式戦闘機の材料集めでしばしば星崎工場へ行った。そこで目にしたのは、煤だらけの工場内を走る入換機関車であった。それは笠寺からC50に引かれて入る省の貨車より遥かに小さな熔鋼や製品の特殊鋼を運ぶトロ2〜3両を引いて走り回るミニELでした。ELは煤で真っ黒で、人より低い箱形だが、釣り掛け音を響かせて走り回る姿が記憶から離れない。
 当時の名市バスの電池バス(E1〜E60?)は、ノロノロだったが、このELは活発だった。今のフォークリフトの役目だが、当時は手押しのトロッコ軌道が普通で、効率が高かった。
 大同会のOBの皆様から、これがバッテリー機関車で、充電所のあったことを教えられ、お礼を申し上げたい。

2 名鉄モ1400形電車
 戦時中、星崎工場の工員は名鉄の大同町駅から通う人が多かった。しかし、輸送は三菱大江が重点とされ、大同は苦しかった。
 終戦近くの昭和19年頃、大同製鋼は私有電車2両を日本車輌で作り、常滑線で大同専用の通勤電車を走らせようとした。
 当時、電車の新造には鋼材を提供すること条件で、これは大同が負担して名鉄と打ち合わせの上、日車へ発注した。日車の受注番号は、名鉄何番でなく、大同1、2となっていた。名鉄ではデワ改造のモ1300形の次のモ1400形とし、HL、AMMのMTを予定していた。
 日車の図面は完成し、写真(1)[伊藤注:省略します]のク2140形と同型の3扉、椅子なし車(MTとも)であったが、それ以上進まないうちに終戦となった。車号はモ1401、ク1402とも聞いたが、認可申請以前で、名鉄側の書類はなく、日車の図面のみ残った。

3 捕虜専用電車モ1061
 昭和17年暮からイギリス、オランダ軍の捕虜100余名が日車でSLや貨車の製造に当たることとなり、有松の丘上の日車寮を捕虜収容所とした。(戦後も日車寮に)朝夕、有松裏〜神宮前にモ1061単行の専用ノンストップ電車が運転された。
 戦争後半にはD52とトキ900が作られた。
 捕虜は、ラジオで戦勝を予知しており、米軍も有松を知っていて、進駐までパラシュートで食糧を投下していたが、外れは日本人へのプレゼントになった。これを拾ったことのある人も年々減っている。
 秋には、省線からオハ35系の客車がデキに引かれて有松裏の駅に入り、生存者全員が帰国した。この時の写真は新聞に出たが、それ以前の情報は、すべて口伝えによるものである

4 豊川鉄道の下汽車
 戦前、豊橋から北に西側から東海道の複線、名鉄、豊川鉄道の複線、一番東側に豊川鉄道船町線の単線が走り、SL、電車、SLの順になっていた。
 船町線は豊川の1形SLが木材を満載したトを船町の港から急勾配を豊橋駅へと引き上げていた。
 豊川(とよがわ)を下る木材は多く、イギリス生まれのCタンクはいつも活躍していた。しかし、沿線の人はC53や名鉄3400に対し、この汽車をバカにしていた。他の4線が高架なのに、船町線は地平で一段低い所を走るため、沿線では下(した)汽車と呼んでいた。もう、この名を知る人も少なく(私と同じ80歳以上)、次代に伝えたい。
 豊川鉄道線の旅客の船町駅は、今も高架上にある。
 次の写真2[伊藤注:省略します]は、トーゴーカメラで、昭和20年に代用フィルムで写した。SLは浜松工機部で化粧煙突を裸にされたが、番号は省の1285ではなく、1・2のままであった。これは貴重な写真で、これからすぐSLはB6からC50に代わり、木材の引き上げが続いた。
 今は草の中だが、レールは残り、船町貨物駅はコンテナー基地となり、昔からの日通がある。

5 常滑駅物語
 名鉄常滑駅は、創立以来貨物上位で、旅客駅は片隅に小さくあり、収入でも貨物の主役が続いた。関東では常磐線がもっとひどく、大量のトムの海の端に古びたミニ駅舎(小屋)があった。
 常滑付近の本線はずっと単線だったが、その頃、製陶会社の陶土を運ぶトロッコ軌道があった。これを知る人も少なくなったが、常滑線の下を立体交差していた。この軽鉄道は、昭和初年に廃止された。
 写真3と4[伊藤注:共に省略します]はずっと新しく、伊勢湾台風後の常滑駅で、まだ貨物上位、街に煙突は400本以上あり、常滑の街が全盛の時代であった。
 名鉄局ポム1も懐かしく、水没線は1m以上に達している。ト224の方では、架線柱ビームの曲がり具合をご鑑賞ください。左が車止め側の南側で、ト200の積荷は焼き物です。

6 常滑の陶業トロッコ
 常滑陶業史に詳しい柿田富造氏よりトロッコの資料を戴いた。このトロッコは明治末、電車開業より早く、陶栄会社により常滑線と直角、東西に敷かれた。
 トロッコは陶栄工場と船着き場を結んで原土と土管などの製品を運んだ。線路は短かったが、途中に番所山という山があって、トロッコはトンネルで抜けていた。
 大正2年、常滑線電車が港まで通じ、電車はトロッコの上を立体交差した。
 番所山は、大正時代に埋め立て用に切り取られたが、トロッコは電車開通後は製品を常滑駅の貨車まで運び続け、昭和初年に廃止された。

7 露橋信号所について
 名鉄百年史に大戦末期、神宮前の貨物ヤードが過負荷し、東海道線の露橋信号所に助けられた、との記事がある。
 露橋信号所は、大正と昭和初期の2回存在したが、短期、仮信号所的なもので、戦中のものは国鉄の記録にもない。
 今の山王信号所の南、露橋公園辺りが戦中の地図では軍事空白で、昭和21年6月の米軍空撮では、数本の線路と建屋らしきものが見える。
 一つの推定として、大戦後期、各航空機工場の入出荷で熱田駅、名古屋港駅、名鉄の東名港、伝馬町、神宮西ヤードは満杯のため、露橋にヤ―ドを作り、軍専用なので地図には部外秘としたが、戦後は早くレールを撤去し、のちに露橋公園などになったことが考えられる。
 また、使用したSLは名港、白鳥と共用で、C50が考えられる。
 国鉄文書は何もなく、今後の聞き込みと調査が待たれる。
 本件については、鉄道友の会の楠正昭氏に格別の御教示を戴き、お礼を申し上げます。

8 終戦前後の名古屋日記
 昭和20年8月15日を挟んだ私の日記は、幼稚な内容ながら、何かのご参考になると考え、ご紹介したい。
 その頃、私は豊橋の自宅、名古屋御器所の下宿、名鉄揖斐線の疎開先を往来していた。各市とも焼け野原だが、市電は良く走り、連絡は全て手紙で、1銭5厘のハガキも不着は少なかった。東海道線は貨物中心となり、C53の貨物転用はその廃車を早めた。一方、敗戦後は米軍のP51が京都御所の前へ離着陸するという無茶な時代であった。
 記録は全てメモでやっていて、写真は僅かである。というのも8月15日以前は、日本軍が怖く、以後は進駐軍が怖かった。でも20年末近くになると、米軍は普通の写真なら良いと分かり、代用フィルムでぼつぼつ写した。

・昭和20.7.19
 朝、焼け野原の豊橋より名鉄モ912+ク2002の急行へ。美合でP51の銃撃を受け、逃げる。死者なく、金山橋へ1時間延着。金山線のモ756+ク2101で新名古屋より市電1427、今池よりトロバス12006で御器所着。この夜岡崎全焼す。
・20.7.24
 市電高辻車庫へ加藤主任を訪ねニュースを交換。145(木造)はGEのB18L、157(鋼体化)はB18Eが付いていた。
 高辻には休車6と11(八事)、N86、N89(京都)が居た。市電の所属プレートは移動で無効とのこと。
 帰りは空襲警報で市電が止まり、歩いて帰った。御器所トロバス線に大型爆弾、1000ポンド級か。大曽根三菱の流れ弾。命はあきらめている。
・7.28夜
 一宮、大垣空襲、全焼。
・7.30
 艦載機F6F、F4U大挙名古屋低空に、全ては休みに。この頃友軍機は1機も見ず。
・8.6
 広島原爆。某教授、これは原爆だと断定。戦争は終わりだ〜〜〜しかし、この発言が漏れれば、憲兵隊行きである。
・8.7
 昼間、B29の豊川空襲(2,500人死)
 名古屋市電枇杷島新線を見たいが、工事遅れ、未成とのこと。洋服買入す、200円にコメ1升。
・8.15
 休戦、空襲なく灯火管制やめ。街に明かりがつく。ラジオの海ゆかばなどは消え、これで命が助かったのか。
・8.18
 食糧のため豊橋へ帰省。鶴舞よりD50147、ナハ22000(新ナノ)で名古屋へ。小田原生きC51210、オハ34129に乗り、3軸のオハ8513も入っていた。空襲もなく30分延で豊橋着。
・8.19
 サツマイモなど食糧重し。自宅に近い船町より省電モハ10174、クハ15046で豊橋経由金山橋へ。省電モハ10はのちに客車代用としてSLが引いて飯田線を走った。
8.27
 名古屋低空をF6F、P51、スピットファイア飛ぶ。
・8.28、29
 名古屋低空をF6F、B29(観測?)飛ぶ。B29の美しさに改めて驚く。
・8.31
 初めて東海道の客レに貨車使用を見る。
・9.2
 豊橋よりSL列車で岐阜へ。途中蒲郡線でSL709、安城支線でモ461、一宮入れ替えのモ1301を見る。忠節よりモ71単行で相羽下車。(709は以後東名港、各務原へ)
 本日、敗戦の協定成り、日本は事実上アメリカ領となる。
・9.5
 黒野発モ52で忠節へ。岐阜でB6の2426、2474、高山線のC58242(山)を見て豊橋へ。高山線のマシ、名タヤのホム1200もいた。
・9.6
 豊橋低空にC46、PB4Y飛ぶ。ナハ22600(東ヨロ)に立って名古屋着。
・9.14
 名古屋飛行場(港)の整理奉仕。老朽91戦2機、海軍3式初錬等5機は残す。しかし、A7など三菱新鋭機は不在。
 どこへも市電で行った。名古屋港駅は長らく6250だったが、今はC50に代わっていた。

 この頃、食糧不足で体力なく、切符は証明書を出して並んで買う。私の日記は文語体。
 この直後から多くの米兵と軍用車が名古屋港から各地に向い、小牧には5AF(第5空軍)が進駐。各所にRTOができて、進駐軍時代に入った。各地に星条旗が立つのはその頃で、敗戦直後はしばらくの空白期間であった。



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No.576 (Re:573) 【名古屋レール・アーカイブス】NRA NEWS No.5 瀬戸線こぼれ話(1) 伊東重光
ひろやす/伊藤(vnnc8158) 2009-03-16 18:11:07
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   NRA NEWS No.5



瀬戸線こぼれ話(1)
    伊東重光

1.瀬戸軽便鉄道計画のこと
 「瀬戸線の90年」の年表1)によれば、瀬戸線は、明治35年(1902年)3月17日瀬戸自動鉄道会社として誕生し、明治39年(1906年)4月2日に営業を開始しているが、出発点ともいえる瀬戸軽便鉄道の計画については殆ど紹介されていないようである。この年表には、明治27年(1894年)5月24日堀尾茂助氏ら15人が瀬戸鉄道株式会社私設軽便鉄道発起願いを提出となっているが、愛知県公文書館に、明治29年(1897年)1月11日に河村吉太郎氏ら20人が逓信大臣に申請した資料2)がある。堀尾茂助氏はこの中に含まれていないなど種々の差異があることから、構想を改めて再提出したのかもしれないが、8月5日に堀尾氏と松永左衛門氏が発起人に追加されていることから、紆余曲折があったとも想像される。同年9月18日には他線への連絡や軍事上の利便をあげて軽便鉄道を普通(狭軌)鉄道に変更する予定を議決して、河村氏と堀尾氏が連名で当局に通告した資料もあり、年表とは差異がみられる。
 この案は受理されていないので瀬戸自動鉄道とは異なる点が多くても不思議でないが、軽便鉄道の申請書(私設軽便鉄道株式会社発起認可及び鉄道敷設申請書)に添付されたと思われる「目論見書」(図1)に、建設費等の内訳が分かる興味ある内容があるので紹介する。この「論見書」には日付がなく、文書が必ずしも系統的に保存されていないので確認は困難であるが、申請書に「別紙起業目論見書」とあり、この資料を指すと思われる。
 会社名は「瀬戸鉄道株式会社」(資本金2万円)で、本社を名古屋に置き、「名古屋から大森を経て瀬戸に至る」としている。路線は2フィーと6インチで(約76cm)で、長さ13マイル(20.8km)とある。ちなみに、瀬戸自動鉄道は大曽根〜瀬戸間10マイル6チェーン(約16.12km)であった。理由は分からないが、付図(図2)には上記の経路と異なって瀬戸まで矢田川/瀬戸川の南(現在の国道363号に相当する位置)に鉄道が記されており、起点は中央線大曽根駅付近で、古出来町付近へ出て東進する計画であったように思われ、途中で計画が変更されたのかも知れない。
 鉄道敷設費25万円の内訳は、鉄軌(レール)15マイル(24.15km)分で57,000円(1マイル3,800円)、15tの機関車は3台で18.000円(1台6,000円)、客車20両で10,000円(1両500円)、荷車(貨車であろう)30両で12,000円(1両400円)、緩急車2両で2,000円(1両1,000円)で、敷地買い上げ費11,440円(1坪50銭・長さ1間につき平均2坪)、停車場倉庫地5,000円(名古屋市分3,000円・瀬戸分1,500円・大森分500円)、移転費3,000円(1坪5円・建屋600坪分)、橋梁/カルベルト19,500円(39か所・カルベルトは線路等の工事によって分断される水路や道路にたいする暗渠や橋などの付帯工事)、線路土工費57,200円(芝附け・下水等を含め、1間につき5円)、砂利費11,440円(1間に付き5合・「合」は尺貫法による地積の単位で1/10歩、即ち0.33平米)、鉄道敷設費5,720円(レール/枕木の運搬/据付等の費用・1間に50銭)、停車場、倉庫、フラトホルム等家屋建設費10,000円(1,000坪分・フラトホルムはプラットフォームか)、電信費2,000円(名古屋〜瀬戸間)、信号費1,000円(各停車場分)・諸器械費1,000円、運送費1,000円(器械の運送/組立費)、監督費5,000円(完工までの 監督技師の報酬)、創業費3,000円、予備費1,400円となっている。
 収支概算に貨物が10貫目(37.5kg)を13マイル(20.8km)・4銭3厘として、1年間に600万貫(22,500t)で25,800円、乗客が1人に付き13銭で往復200人として1年間に8,490円を目論んだようである。その他の収支については割愛する。ちなみに後日に瀬戸自動鉄道が開業したときは、資本金が23万円であったが、当初の瀬戸〜矢田は、9マイル20チェン(14.8km)5)であり、大曽根まで延長して10マイル6チェン(16.1km)6)と路線が短縮されており、経費を少なくしたのであろうか。現在の経路は矢田川をまたぐ瀬戸線としては長大な橋梁を必要とするが、南の路線は矢田川より小さいが、香流川、本地川、山口川の3本の川に橋梁を要するので、この経費も節約になったのかも知れない。
当時の物価は「物価の文化史事典」3)によると、米(標準米上)の1石が14円13銭(1kgが、ほぼ10銭)で、公立小学校教員(東京)の初任給(月額)は10〜13円、東京〜大阪の鉄道運賃が3円97銭、山手線の初乗りが5銭とあり、現在の1万分の1程度になるようである。
 ちなみに、瀬戸自動鉄道開業時に使用したセルポレー式原動車(C号)の購入費は3,800円であったとのことで、この目論見書にある機関車の見積もりの1両6000円からみて経済的にも思えるが、同じ資料にA号・B号は2両で19,000円1)とあり大きな差がある。C号が明治37年(1904年)11月製、A号・B号は明治36年(1903年)11月製4)で、C号の価格には高価な補修部品(直径2インチの特殊金属性パイプが70本使用されており、1本50円位5))を含んでいる可能性もある。

文献
 1)伊藤正「瀬戸線の90年」郷土出版社、p.227、1997.
 2)国文学研究資料館 所蔵 瀬戸鉄道軽便鉄道関係資料「私設軽便鉄道株式会社発起認可及び鉄道敷設申請書・目論見書・発起人加名届け」明治29年.
 3)森本卓郎監修「物価の文化史事典」展望社、2008.
 4)山田 司ほか「せとでん100年」中日新聞社、p.22、2005年.
 5)三春生「十日間のたび」(電気之友、p.766、明治38年8月)。
 6)午来生「瀬戸電気鉄道」(電気之友、p.733、明治43年5月15日)。


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No.577 (Re:573) 【名古屋レール・アーカイブス】NRA NEWS No.5 絵葉書を楽しむ4:殿橋を渡る岡崎馬車鉄道 藤井 建
ひろやす/伊藤(vnnc8158) 2009-03-16 18:11:14
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   NRA NEWS No.5



 愛知県下で馬車鉄道を運行したのは、明治32年(1898)に開業した岡崎馬車鉄道と明治41年に古井〜八事間を開業した愛知馬車鉄道(名鉄の前身と同名であるが別会社)の二つであった。
 ここでは、岡崎馬車鉄道について記する。
 岡崎馬車鉄道は、明治21年9月に開業した官設鉄道岡崎停車場が市街地から南へ約3.5km離れて設置されたことから、その不便を解消しようと地元の有志によって設立、開業した。
 開業日について、『名鉄百年史』など多くの資料では明治32年1月1日としているが、和久田会員からご教示いただいた『帝国鉄道要鑑』第二版(明治36年発行)には、「開業年月日 三十一年十二月二十八日」と記されている。また、明治31年12月29日付の『扶桑新聞』には、前日の開業式の様子が掲載されていることから、12月28日を開業日として断定してもよかろう。ただ、28日は開業式のみを行い、正式営業は1月1日からであったという可能性も否めなく、もう少し検証する必要もあろうかと思う。
 さて、このときの開業区間は、殿橋の南詰(明大寺町)から岡崎停車場までの3.3kmで、乙川(通称:菅生川)を殿橋で渡った北詰に至るのは、明治40年6月22日のことである。
 この北詰の場所が、誤解を招くことになった。『名鉄百年史』では、この北詰の停留所名を「康
生町」としているが、これは間違いである。確かにこの場所は、康生町であるが、ここには車庫や本社があり、最初は岡崎市街への入口ということであろうか、「岡崎」と称した。その後「殿橋」となった。
 大正元年(1911)9月に電車化されたが、区間は馬車時代同様、駅前〜殿橋間であった。この殿橋の駅の状況は、今回の『鉄道ピクトリアル』の名鉄特集に白土貞夫氏が絵葉書を紹介されている(p84)ので、ご覧いただければと思う。
 問題の康生町の停留場が設置されたのは、大正12年9月に岡崎井田まで延長開業したときである。
 上に掲げた絵葉書は松林より望む殿橋を題材としたもので、中ほどに橋を南から北へと渡る馬車鉄道を見てとれる。その先(左端)には、『写真が語る名鉄80年』の38掲載の車庫の建物があるのがわかる。


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NRA NEWS No.5 2009.3
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