牛乳たか(sfzm9381) 2009-09-26 02:05:37 |
今更ですが参加です。 北海道の北の方に住んでいましたので、小学校、中学校の修学旅行は貸切バスのみでした。鉄的には残念な小中学時代でした。 高校では青函トンネル開通直後でしたので、これまた連絡船という貴重な体験をできなかったのは心残りです。それでも今考えるとおもしろい行程でした。たぶん1989年秋になるはずです。 ●留萠−留萌線−深川−函館線−岩見沢−室蘭線経由−苫小牧 キハ56による団体急行列車、他校が途中から乗ってきますので車両が分かれているもののちょっとした修羅場に。(まぁ血気盛んな工業高校でしたんで) このとき現在は通過線になっている追分駅の中線で50分停車というのが田舎高校生には堪えましたねぇ。 ●苫小牧−函館 183系特急北斗に便乗です。自分の乗った車両は編成唯一の0番台車で、ちょっと凹みますね。幕の内っぽい弁当が支給されました。今でしたらかにめしくらい発注していたでしょうね。 ●函館−京都 当時函館−大阪を直通していた「日本海」です。初めての青函トンネルでしたが、寝台ってあんまり景色を見るには適していないんですよね。私個人はどこでも寝れる体質なので、上段寝台が怖いという(見た目はヤンキーな)友人と席を替わっておりました。 ●京都−東京 新幹線100系電車です。当時まだまだ本数の少なかった100系は修学旅行では全く使えないような高嶺な車両だったはず。しかし我が校、京都から東京への移動は班単位自由行動という今思えば無謀な取り組みがありまして、列車は事前に決めることになっていたもののどの列車に乗ってもよかったのですね。京都を観光後に東京へ移動してもよいし、朝のうちに東京へ移動して東京観光するもよいとなっていました。 一応1ヶ月前までに利用列車を決めて申し込む形でしたが、指定列車の出発前は指定席が1回まで変更できること、乗り遅れた場合は後続の自由席が利用できることを盛んに説明していましたけど興味のない人は解っていたのかいまでも疑問です。 ちなみに京都の宿泊先から京都駅までも自腹で移動となっており、この時点で挫折した班もいたようです。 新幹線乗車後は車内公衆電話で京都または東京に待機する教師へ乗った列車を連絡し、東京の宿泊先へも自分で行かなければならないというのは、まぁいい経験だったと思います。今の私でしたら当然何のことありませんが、田舎の高校生のこと、半べそで迎えを頼んだものもいたと伝え聞いています。宿泊先は田町駅近くで、新幹線品川駅の無かった頃ですし慣れない中ホテルにたどり着くのは確かに大変だったと思います。 ●東京−苫小牧 今は無き寝台特急エルムです。豪華個室や食堂車を備えた北斗星に対しオールモノクラスB寝台のエルムはまぁ、退屈な列車ではあります。私の乗った車両はフラットがひどく、その後も学友には寝台と言えば「がたがたした眠れない車両」という印象がついてしまったのは残念です。 ●苫小牧−留萠 行き同様にキハ56の団体列車です。旭川区のちょっと改良された車両でしたが、古さは否めず、さすがに疲れました。 思い出すと今は乗れないキハ56や100系新幹線、あと東京自由見学中に銀座線2000系や浅草線5000系あたりも乗っていましたので懐かしい思い出ですね。 自由な班単位の移動というのは当時の母校は就職先のほとんどが道外で、就職試験や赴任で首都圏へ行くときの予行演習のつもりもあったんでしょうね。いい経験でしたがやはり管理が大変なこともあって後輩は通常の団体行動だったと聞いています。 牛乳たか・サカモト |